榎土敦之のコラム「川添さんの傘」

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川添さんの傘

事務所からの帰りの電車ですごいものを見た。

55歳くらいの普通のおじさんが傘を持っていた。
その傘の柄の部分に油性マジックで“川添”と書いてあったのだ。

(この人は、川添さんなんだ・・・)
(しかし、本当なのだろうか・・・)
(本当に川添さんなのだろうか・・・)

気になる。

名前が書いてあるのだから、その傘はたぶん“川添さん”のものだろう。
しかし、それを持っているからって、おじさんが“川添さん”とは限らない。

もしかしたら、この傘が“川添”なのか。
正確に書くのなら“川添の傘”である。
もしくは“川添所有物”。
せめて“川添の”

車なら車体後部にメーカーと車名が書いてある。
そこに所有者の名前は無い。
ということは、やはりこの傘が“川添”なのか。

気になる。

名前を書くからには、「この傘は川添のものです!」と、世に知らしめたいのだと思われる。
ということは、僕は、目の前にいるこのおじさんが“川添さん”だということを覚えておく必要がある。
もし新宿で、浅草で、ディズニーランドで、大阪で、沖縄で、いやニューヨークでこの傘が忘れられているのを見つけたら、真っ先に連絡しなければならない。
「川添さん! 忘れてますよ!」

それには、まず、このおじさんが本当に“川添さん”なのか確かめなければ。
そして携帯番号を聞かなければ。

いや、待て。
もし、この電車に乗ってる人達が全員、おじさんが“川添さん”だと、すでに知っていたら、どうしよう。

「何を、いまさら…」「え!知らないの?アイツ!」「川添さんに失敬な!」という声が聞こえてきそうだ。
その“川添”の文字の剥げ具合から以前から書いてあったと考えられるからだ。

気になる。

そうこうしているうちに、5つ目の駅で“川添さん”は降りていった。

もし、“川添”と書いてある傘が忘れられているのを見つけたら、まずは僕に連絡して頂きたい。
彼の携帯番号はわからないが、顔は覚えている。
その傘を持って、あの電車に乗れば、ほぼ確実に持ち主に返されるのだ。

彼が乗っていなくても、乗客の誰かが、僕に言うのだ。
「それって、川添さんのじゃ?」

そのために、“川添さん”は名前を書いたのだ。