榎土敦之のコラム「ほんもの」

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ほんもの

持っているからといって、できるとは限らない代表がギター、サーフボードだろう。
なにを隠そう、両方とも僕の部屋にはある。

サーフボードは、後輩からもらったもので、ハワイでしか買うことのできない、しかも日本にはあまりないという代物だ。
今はもっぱらボディーボードなので使っていないが、まぁ、昔はちょっとできた。
ゆえに、例外。

そして、ギター。
こちらが、例に漏れない方。
弾けない。
何にも。

何故、僕の部屋にあるかというと。
買ったから。
当たり前だが。

これが、とても面白い代物なのだ。
なんと。
店員さんが「○○のバッタもんのバッタもんです」って説明してくれたのだ。

素敵!!!
その一言に惚れて、即買いしてしまった。

すごいじゃない!  
「バッタもんのバッタもん」。

普通、ただの「バッタもん」てあるじゃない? 
さらに「バッタもん」なんて。

バッタもんを作る時って、元になる本物が存在して、それを真似するわけだよね。
つまり、本物を意識しているわけ。

だけど、さらにバッタもんってことは、もとになるのは、すでにバッタもん。
ということは、本当のもとになっている「本物」は無視されてるんだよね。

まぁ、正直なところ、大もとの存在を知らないわけないだろうけど。
あえてバッタもんをパクッちゃうところが、おもしろい。

なんだか、この意味のないような、ひねくれた努力に惚れちゃったのだ。

一応、市民権は得ているのだろう。
堂々と売っていた。
それも、大もとの本物のとなりに並んでた。

ってことは、独立した「ほんもの」となったのではないか。

僕自身、ある人のバッタもんだと言える。
一番最初に都志見さんと深井さんに書いたものを見てもらった時に、
「○○みたい」って、ずばり言い当てられちゃったくらいだ。

でも。
最近、そうでは無くなってきた気がする。
だからと言って、その人に対する尊敬が無くなったわけではない。

ものすごく良く言ったら、自分の文が書けるようになったのかもしれない。
大もとから、だんだん離れていっている。

もっともっと離れて行ったら、オリジナルとなるのだろうか。
そしたら、このギターのように、大もとと肩を並べることができるのかな。

僕のゆめは、その人に会って話をすることだ。
そして堂々と言いたいのだ。

「いやぁ~。実はあなたのバッタもんなんですわ」